【沖縄ひめゆりの塔】慰霊碑周辺の見学方法とアクセスを紹介します

沖縄

第2次世界大戦において、日本で最も甚大な被害を受けたのが沖縄県です。

沖縄県には戦没者をしのぶ慰霊碑や、「ガマ」と呼ばれる防空壕など、戦争の痛々しい爪痕が残っています。

その中でも最も名前の知れ渡っているのが、「ひめゆりの塔」です。

糸満市にあるひめゆりの塔は、戦時中には傷ついた日本兵を治療する病院として機能していたガマと、その場所で何が起こったのかを生々しく伝える博物館があり、沖縄戦の悲惨さを学ぶことができます。

今回は、そんなひめゆりの塔の見学方法とアクセスについて紹介します。

これを読めば、

ひめゆりの塔へどうやって公共交通機関でアクセスするか
・ひめゆりの塔には何があって、どのように見学すればいいのか?
を知ることができますので、沖縄観光の参考にしてみてください。

ひめゆりの塔 交通アクセスの紹介

 

那覇市からひめゆりの塔までは、レンタカーなら奥武山公園から国道331号線をひたすらまっすぐ南下して、約30分で到着できます。

バスで行く場合は、那覇バスターミナル反対側の「Aバス乗り場」から89番のバスに乗車して35分で終点「糸満バスターミナル」で下車し、そこから82番のバスに乗り換えて15分、「ひめゆりの塔前」で下車すれば目の前です。

那覇〜糸満間のバスは1時間に3本以上とたくさんありますが、82番のバスは1時間に1〜2本しかありません。

時間帯によっては一本も走っていない時もあるので、訪れる前にはしっかり計画性を持って行くようにしましょう。

ひめゆりの塔 基本情報

 

こちらが、「ひめゆりの塔」の入口となります。
「塔」と記されていますが、塔がこの場所にあるわけではありません。

「ひめゆり」とは、戦中に沖縄陸軍部に動員された沖縄師範学校女子部と、沖縄県立第1高等女学校の生徒のことを、「ひめゆり部隊」と呼んでいたことからこの名前がつきました。

ちなみに、沖縄師範学校は那覇市の安里付近、現在の栄町市場の付近にあったそうです。

ひめゆりという名前の由来は、沖縄県立第1高等女学校の校誌「乙姫」と沖縄師範学校の校誌「白百合」を組み合わせ、「姫百合→ひめゆり」と呼ぶようになりました。
こちらが、この場所で亡くなったひめゆりの生徒を慰霊する慰霊碑です。
慰霊碑の前には献花台が置かれています。
入口の前には、献花用のお花を販売するお店がありました。
この日は閉まっていましたが、1束200円で販売しています。
献花をしたい方は、こちらのお店で花束を買う様にしましょう。
慰霊碑の目の前には、巨大なガマ(洞穴)があります。
近くで見ると、巨大で深さもかなりのものでした。
このガマは戦時中に糸満市南部で傷ついた日本兵の治療をするための「沖縄陸軍病院第3外科」が置かれた場所です。

外からはっきりとガマの中を確認することはできませんでしたが、かなりの深さで不気味な感じがしました。

ガマの中は劣悪な環境で、粗末な2段ベッドに寝かされた大怪我を負った日本兵のうめき声が聞こえるまさに地獄の様な環境だった様です。

蛆虫(ウジムシ)などが発生するなど衛生環境も最悪かつ食糧も薬も足りない状態で、日本兵は次々と息絶えていきました。

そして1945年6月19日朝、このガマは米軍によって襲撃されて、100人中80人(うち42人が女生徒と教師)が命を落としました。

深さ約14mのこのガマの中で、どれだけ恐ろしいことが起きたんだと考えると、背筋が凍ってきます。
それをわかっているから、中々写真を写すのにも抵抗がありました。

 

 

 

ガマの後ろにあるのは、納骨堂と呼ばれる慰霊碑で、石碑にはガマで亡くなった犠牲者の名前が刻まれています。

さて、ひめゆりの塔の周辺には何があるのか?
今度はそちらを紹介しましょう。

ひめゆりの塔 入口前のガマとガジュマルの木

 

 

ひめゆりの塔の入口前には、小さいですがガマがありました。

地面からヤシの木やガジュマルの木が生えているのが沖縄らしいですね。

 

 

慰霊碑の近くにあるガジュマルの木です。
暑い日に訪れた際には、木の下でゆっくり涼んで休憩することをおすすめします。

ここが戦争遺産ということを忘れれば、、木々の音と小鳥のさえずりが響く実に心地よく平和な公園です。
70数年前に、悲惨なことが起きたなんて信じられないくらい静かで平和な空気が漂ってました。

ひめゆりの塔 石碑と沖縄戦についての解説

 

 

ひめゆりの塔の入口にある石碑です。
ここには、戦時中にこの場所で何が起きたのかを克明に書かれています。

 

 

こちらでは、ひめゆり学度隊が結成された1945年3月から解散する6月までに何が起こったのかを、さらにわかりやすく解説しています。

追い詰められた生徒は逃げまとい、やがて米軍に銃撃されたり、海に落ちたりして亡くなりました。
また米軍の攻撃による混乱によって行方不明となり、死んだのかどうかわからない生徒も多かったそうです。

あまりの悲惨さに、言葉を思わず失ってしまいます。

ひめゆりの塔 刻印碑

 

 

慰霊塔の横にも、このような刻印碑があります。
やはりこの場所で亡くなった人の名前が記されてました。

この碑は、戦後間もない頃に建てられたもので、刻まれている犠牲者は当時分かった一部の人のみです。

ひめゆりの塔 ひめゆり平和記念資料館

 

 

慰霊碑を見学し終えたら、次はこちらのひめゆり平和記念資料館を見学しましょう。

ひめゆりの塔の左側に位置して、資料や写真を通してこの場所で一体どんな悲劇が起きたのかを紹介する博物館です。

かなりセンセーショナルな展示物が多いことから、館内は撮影禁止となっています。
それだけショッキングな部分もあるので、そのつもりで入場しましょう。

入館料は、

大人 450円
高校生 250円
小中学生 150円
で、開館時間は午前9時から5時25分(最終入場は午後5時まで)となっています。

館内には、

  1. 沖縄師範学校と県立第一高等女学校とはどんな学校だったのか?
  2. 生徒を看護要員として派遣した防空壕の中の沖縄陸軍病院の悲惨な環境を再現
  3. 壮絶な沖縄戦での出来事や被害状況
  4. 戦争によって命を落とした生徒の写真とひめゆり舞台の生存者の証言記
  5. 戦後、後の世代にこの壮絶な出来事を語り継いていく為の活動報告

といった内容が、貴重な資料や写真と共に時系列で紹介されてました。

中でも、亡くなった生徒や先生が壁一面に貼られた第4展示室はかなりショッキングです。

1枚1枚の写真には、名前やその子が生前どんな子だったのか、どのように死んだのかが確認できた範囲内で紹介されてます。

中には、どのようにして亡くなったのかわからない子や、死んだかどうなのか確認も取れて無い子もいて、それがまた胸をしめつけます。
同じ部屋には、犠牲となった生徒達の手記が展示されていて、ガマ内の野戦病院の過酷さや友達が目の前で死んでいく恐怖など、言葉を失ってしまう文面ばかりでした。

 

 

博物館の中庭は、撮影可能です。
屋根瓦や芝生がとても美しい博物館でした。

 

 

博物館の出口には、このように千羽鶴を飾るスペースがあります。
よく見ると全国各地の中学や高校から送られてきたもので、中には修学旅行で訪れた際に贈られた千羽鶴も見受けられました。

この場所には、全国各地から永久の平和を祈る願いが寄せられているのです。

 

 

博物館を出たら、この遊歩道を歩いて入口の方へ戻りましょう。
ここはひめゆりの塔の裏側になります。

美しい木々が植えられ、かつてここで醜い仕打ちが行われたとは思えないくらいの美しさでした。

 

 

こちらは、滋賀県彦根市に住んでいる琉球王朝の末裔に持つ井伊直子氏が書いた歌です。

ひめゆりのいしぶみに
ふかくぬかづけば
たいらぎをこひのむ
乙女らの声す

ひめゆりの塔を見つめると、今でも苦しんで亡くなった女子生徒達の声が聞こえる、そんな意味でしょうか?

ひめゆりの塔 飲食店

 

 

ひめゆりの塔を見学し終わったら、向かい側に飲食店があるのでそちらに向かいましょう。

観光地ということで、上の写真の沖縄料理のお店やハンバーガーを中心としたアメリカンスタイルのカフェがありました。

 

この他に、飲食店を含むお土産売り場のような建物がありました。
しかし、かなり建物は古いです。

開いているのかしまっているのかよくわかりませんでした。
一応お土産や沖縄料理が食べれる食堂はある様ですが。

気になったら立ち寄ってみましょう。

まとめ

今回は、沖縄戦の悲惨さを現在に伝えるひめゆりの塔がどんな所なのかを紹介してきました。

  1. 慰霊碑と沖縄陸軍病院第3外科があったガマ(洞窟)
  2. ひめゆり平和記念資料館

があって、ひめゆり学徒隊についてや、沖縄戦によってどれだけ悲惨なことが起きたのかを克明に知ることができます。

今沖縄はリゾート地として有名ですが、70年以上前にはこのような悲惨な出来事があったことを決して忘れてはなりません。
沖縄のことを学びたい方は、迷わず足を運びましょう。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

タイトルとURLをコピーしました