皆さん、はじめまして。
僕は、この「ひろたかブログ」の管理人をしている松井ひろたかと言います。
この度は、僕のブログを読んでいただき、誠にありがとうございます!
まずは、簡単な自己紹介をしていきましょう。
出身は静岡県静岡市葵区。
誕生日は1981年10月1日生まれです。
年齢は、2021年で40歳になります。
それまでの仕事は、自動車部品を生産する工場で、プレス機を使って生産加工する仕事に5年間勤しんできました。
しかし、この仕事そのものに興味を持てずに仕事への意欲も消え、また従業員のパワハラや嫌がらせ、人間関係の酷さに嫌気がさしてしまい退職を決意。
現在は、就職活動をしながらこのブログと、noteの運営、また2022年2月から始めたWebライターの仕事をしています。
趣味は旅行とスポーツ観戦、音楽鑑賞です。
簡単ではありますが、自己紹介をさせていただきました。
ここからは、僕がどのような人生を歩んできたのか、簡単な生い立ちと自分の趣味などに関して色々と書いていきます。
僕がこういう人なんだというのを分かって頂くだけで良いので、気軽に読んでみてください!
目次
松井ひろたか 生まれてから現在に至るまで
81年10月1日にこの世に生を受けた僕は、とりあえず大きな病気も無くすくすくと成長していきました。
子供の頃は、あまり外で遊ぶ事も無く家の中で本を読んだり、鉄道のおもちゃで遊んだりする内向的な子でした。
今では嫌いですが、子供の頃の僕は大のテレビっ子。
当時見ていた番組のほとんどは今でも鮮明に覚えていて、バラエティやアニメ、ドキュメンタリーなど色々と見ていました。
今でも当時の番組をYouTubeで時々見たりしていますが、女の乳房や暴力シーンなど、とにかくやりたい放題だったので夢中になって見ていたのを今でも覚えています。
それにしても、どうしてオッパイとかなんやら、どうしてこんなシーンがいけないんでしょうか?
そんなことはともかく、ここからは時代ごとに僕という人間がどのようにして構築されていったのかを、時系列で紹介していきます。
松井ひろたか 幼稚園から小学生まで 鉄道との出会い
子供の頃、とにかく1番ハマっていたものは鉄道です。
6歳頃から、鉄道ジャーナルや鉄道ファンといった、大人でもかなり難読な鉄道雑誌を親にせがんで買ってもらい、読んでいました。
まあ読んでいたとは言っても、細かい活字の部分はほとんど読まず、誌面に掲載されている鉄道の写真を見るだけで満足していましたが。
この他にも、6歳の頃に父と一緒に新幹線の三島車両基地の見学に行ったり、1人で何時間も東海道線や静岡鉄道の電車を線路脇で眺めているなど、鉄道の趣味に入り浸る毎日を過ごしていました。
ちなみにこの頃、東海道山陽、東北、上越と全ての新幹線の駅名を丸暗記しました。
電車だけで無く、飛行機や路線バスのことを調べたりするのも好きで、親と一緒に新静岡センターというデパート(現新静岡セノバ)に行くと窓の外からバスターミナルを眺めていたのを、今でも覚えています。
また僕の父は、仕事の関係で海外に出張に行くことが多かったので、その時搭乗した飛行機の航空券や飛行機の乗り心地などを帰ってきてから聞いたりするのが、何よりの楽しみでした。
そこから飛行機の本を購入したりして、当時(80年代後半)の主要な航空会社はほとんど覚えてしまいました。
今の旅行好きな下地は、この時代に培われたといっても過言ではありません。
あっ、そうそう。当時ハマっていたのは鉄道だけではありません。
あれは昭和が終わる寸前の小学校1年生頃でしょうか。
この頃、特撮系ドラマを見ることにハマっていました。
- スーパー戦隊シリーズ
- ウルトラマン
- 仮面ライダー
- 不思議少女シリーズ
- メタルヒーローシリーズ
この辺りは今でも大好きで、Amazonプライムで時々見ています。
ちなみに、今テレビで放送されているスーパー戦隊、仮面ライダーはほとんど見ていません。
やはりCGの爆発では無く、火薬をたくさん使った爆発や、ロープウェイに宙吊りにされるなど過激でCGを使わないアクションの方が好きなんだと思います。
このような、今見たらとてもできないような危険なアクションシーンや、めちゃくちゃだけどなんだか最後には引きずられてしまうストーリー展開など、当時僕が見ていた特撮ドラマには今のドラマには無い不思議な魅力がいっぱい詰まっていました。
放送当時の時代背景や、昭和の東京の街並みを見たりするのも楽しみの一つでしたね。
そんな事に熱中していた小学生時代。
時々友達とファミコンをしたりして遊びましたが、基本的には1人で遊ぶのが好きなことに変わりはありませんでした。
松井ひろたか 中学生 英語学習と地理にハマる
中学生に進学した僕が、最も当時ハマっていたのが英語学習です。
小学校の頃に通っていた塾で、すでに英語文法を習っていて基礎学力はついていたので、学校の授業は楽勝といった感じでした。
これで自信をつけたのか、英語のテストの点は毎回高得点を取ることに成功していったのです。
そして僕は、英語と同時に社会科、特に地理の授業が大好きでした。
特に自分は、地図を読むのが好きで、暇さえあれば地図帳を読んでいたのです。
おかげで、卒業の頃には世界の国の場所は大体覚えてしまいました。
社会以外の授業でも、先生に隠れて地図帳を読んでいたくらいです(笑)
英語と社会の勉強がよっぽど自分に合っていたのか、中学校の時はこの2教科ばかり勉強していた記憶しかありません。
対象的に、理科や数学といった理数系は全くダメで、テストや通知表はいつも微妙な点数でした。
こうして思えば現在の、
- 英語好き
- 旅行好き
の土台はこの時に培われたと言っていいかもしれません。
松井ひろたか 高校時代 音楽の魅力に目覚める
無事に高校に進学した僕。
当時ハマった趣味が、音楽でした。
中学校の頃から母親が聞いていた、THE ALFEEを聴く様になり、それがきっかけでギターを演奏するためにエレキギターを購入したのです。
アルフィーのコンサートは、1995年の秋ツアーから現在まで、27年間ほぼ欠かさず足を運んでいます。
それと同時期にX JAPANも好きになり、彼らの曲をコピーしている時に洋楽のヘビーメタルの音楽の魅力に気がつきました。
- メタリカ
- メガデス
- ジューダスプリースト
- アイアンメイデン
- ボンジョビ
- イングウェイマルムスティーン
- マイケルシェンカー
- KISS
- ヴァン・ヘイレン
など、数々のアーティストのCDを購入し、フレーズをコピーしていました。
ヴァン・ヘイレンとメタリカは、高2の時に新幹線に乗って、名古屋と横浜にライブを見に行ったこともあります。
ちなみに今でも予定が合えば、関東へ来日公演を見たりしていますよ。
またこの頃は、ギター教室にも通ってました。
学校帰りに先生の自宅があって、毎週木曜日に教えてもらっていました。
タバコのヤニが臭かったのと、ロカビリーをプレイする先生だったので、使う弦の太さも違ったのであまり自分には合わない先生でしたね。
正直それ以外に、高校時代の思い出というのはほとんど記憶にありません。
あまりいい思い出が無く、同級生とも相性の合う人は殆どいませんでした。
学校生活といえば、自宅から自転車で毎日30分近くかけて通学した思い出くらいです。
高2から高3までは、普通科の進学コースに在籍。
相変わらず得意なこと以外はあまり勉強しない日々でしたが、大学か音楽の専門学校どちらに行こうか考えた時「大学に行った方が良い」という周りからの進言により、なんとなく大学を受け合格。
松井ひろたか 大学時代 競馬と出会う
そして高校を卒業後、進学のため千葉県松戸市に引っ越し、千葉県流山市にあった東洋学園大学に進学しました。(現在、大学の機能は東京都文京区に移転しました。)
僕は千葉県松戸市で1人暮らしをはじめ、流鉄流山線に乗って通学することに。
【流鉄流山線】流山市を走るローカル線に乗ってのどかな景色を堪能
専攻は人文学。主に英語の歴史を学んだり、アメリカやイギリスなどの各国の地域、文化を学ぶ「地域文化」を履修。
すでに亡くなった先生もいますが、当時出会った先生には大変お世話になり、ガリ勉ではありませbんでしたが、それなりに勉強は頑張っていました。
大好きだった英語学習は引き続き継続して、TOEICや英検を受けたり、図書館で英語の本を読んだり、映画や英語の教材を自由に聴ける視聴覚室で毎日の様に洋画を見て、リスニングの能力を向上させていきました。
ただ、Fラン大学ということもあって、周りの学生はあまり勉強に熱心な人ばかりでなく、正直居心地の悪さも感じていました。そんな中、2つの転機が大学時代にありました。
それが2年生の時のオーストラリアへの語学留学と、競馬との出会いです。
大学時代 競馬との出会い
競馬の魅力に気がついたのは、大学2年生の秋のことです。
当時松戸市に住んでいた僕は、JR武蔵野線に乗って幕張や船橋方面によく遊びに行ってたのですが、その途中に車窓から見える広大な競馬場がいつも気になっていました。
それが、毎年暮れに有馬記念が開催される中山競馬場と、地方競馬の船橋競馬場でした。
そのあまりの大きさに、
一体どんなところなんだろう?
と気になるようになり、気がついたら競馬場の中に入ってレースを見ているうちに、競馬場に通うようになったのです。
2001年の有馬記念、以前から競馬好きだった弟と母と一緒に有馬記念を見にいきました。
その馬の美しさと観客の熱狂ぶりに、僕はあっさりと競馬のとりことなり、それ以降欠かさず週末に競馬場に足を運ぶようになり、競馬関連の書籍をたくさん購入して研究するようになったのです。
色々な書籍を読むうちに、早い段階から海外競馬にも興味を持つようになり、英語力を駆使して色々なWebサイトを調べて知識を蓄えていきました。
現在でも、海外の競馬サイトやSNSをチェックして、日々各国のレース結果をチェックしています。
一応ここまで競馬のことを話してきましたが、僕は一応授業はサボらず真面目に出席していました(笑)。
典型的な真面目な大学生だったので、成績はまあまあ良かったです。
そして競馬を楽しみながら英語を学んでいく中で僕はもう一つ、海外留学への強い気持ちが芽生えてきました。
資金を貯めるために、僕は
- 書店
- 健康センター
- スーパー
のバイトをしながら資金を作り、海外留学を実現しました。
松井ひろたか オーストラリアへ語学留学
アルバイトで資金を貯めた僕は、3年生の春休みに語学留学の夢を実現します。
場所はオーストラリアのケアンズで、期間は3週間でした。
留学について右も左もわからなかった僕は、東京の青山にあった留学エージェントに足を運んで、最適な学校を紹介してもらいました。
そうして決まったのが、現地の人の家にホームステイしながら、ケアンズの中心街にある語学学校に通うプランを選択。
こうして念願の留学が決まりました。
緊張の面持ちで、成田空港から当時就航していた成田〜ケアンズ間を結ぶカンタス航空に乗ること6時間半、無事にケアンズに到着し、迎えにきたホストファミリーの友人の車に乗せられて、ホームステイ先に向かいました。
こうして訳の分からないまま、ケアンズの生活がスタート。
ホストファミリーは家族でフィリピンから移住した人達で、娘さんが2人いる家庭でした。
ホストマザーは街の真ん中で、小さな焦点を経営していて、夫とは別居中というちょっと複雑な家庭でしたね。
こうして語学学校に通うことになるのですが、その学校はかなり日本人の割合が多く、クラスの半分が日本人でした。
学校の居心地は良かったのですが、肝心の授業はあまり受け答えができず、受け身になってしまうことも多かったです。
授業の無い休日は、バスに乗ってパームビーチや世界遺産の熱帯雨林キュランダに足を運んだりしました。
また、船に乗ってグレートバリアリーフの美しい海を見れたことは、一生の思い出です。
しかし、英語の方は会話は普通にできたものの、自分にとって納得の行くように英語を使うことはできなかった記憶があります。
でも、オーストラリアでの生活は日本以上に居心地がよく、ずっと住んでてもいいかなと心の中で思っていました。
だからでしょうか、帰りの飛行機が離陸した瞬間、オーストラリアを離れてしまう寂しさと英語を上手く話せなかった悔しさが混ざって、涙が止まらなくなってしまいました。
この時の出来事が、ワーホリや30代以降のヨーロッパ旅行などに繋がって行くのです。
松井ひろたか ワークキングホリデーに行く
大学卒業後、僕は某パチンコ店に新卒で入社しました。
しかし、休みが週休でかつ有給も満足に取れない働き詰めの生活で、毎日悶々と仕事をしていました。
その頃寮に暮らしていたので、常に仕事仲間と一緒というストレスが溜まり、体力的にも精神的にも限界を感じることに。
そんな時、再び海外への意欲が湧いてきて、
こんな生活から抜け出したい!
という気持ちが爆発。
わずか1年でパチンコ店を退社することになります。
こうして僕は2005年の3月、ワークキングホリデーでニュージーランドに1年間滞在することになりました。
この時実は、ニュージーランドとオーストラリアと両方で迷っていたのですが、オーストラリアの方が、
- ビザを取得できる人数が限られていた
- ビザの取得にお金がかかった
という条件があったことで躊躇してしまうことに。
逆にニュージーランドはビザが当時無料で取りやすかったという安易な理由で、ニュージーランドのビザを選びました。
なんとも単純な理由ではありましたが、2005年の2月に僕は渋谷のNHKの近くにあるニュージーランド大使館に行き、ビザをゲット。
2005年3月に渡航しました。
最初の1ヶ月は、サポートしてくれた留学エージェントが紹介してくれたホームステイ先に泊まりながら、オークランド市内にある語学学校に通っていました。
オークランドにはその後2ヶ月ほど滞在しましたが、やがてファームスティと言って仕事を提供する代わりに食事と宿泊先を提供する制度を利用してニュージーランドを回る計画を考え、行動することに。
ファームステイ先を紹介するエージェントが発行するリストに書いてある電話番号に、片っ端から電話をして、英語で自ら交渉するのを繰り返しました。
英語で電話をするというのはかなりの重労働でしたが、やっていくうちに慣れていき、数珠つなぎのように色々なステイ先を回ることができたのです。
結局全部で13件、見知らぬ人の家にステイさせてもらうことになりました。
思えばこれを経験したことによって、英語が上達し、後の海外旅行でも活きることになるのです。
このニュージーランド滞在では、ラグビーとクリケットの面白さに気がつくようになり、僕の好きなスポーツになりました。
他にもニュージーランド各地にある競馬場を訪問したりして、競馬に関する知識や見聞を広げることができました。
また、2005年9月〜11月、2006年2月には隣国のオーストラリアを訪問。
最初の滞在ではシドニーとメルボルンに滞在して、特にメルボルンでは、10月〜11月に開催される競馬のビックレースを実際に競馬場に行って見に行きました。
ハイライトは、毎年第1火曜日に開催されるメルボルンカップです。
当日は祝日になるほどの国民行事を、開催地となるフレミントン競馬場で見れたことは、僕にとって一生忘れられない思い出となりました。
松井ひろたか 僕がこれまで訪れた国と地域
2011年には1か月ほどかけてアジアを旅して、2014年には2ヶ月かけてヨーロッパを時計回りに一周しました。
2016年に、現在の仕事についてからは、
- 年末年始
- ゴールデンウィーク
- お盆休み
の長期休みは、必ずと言っていいほど海外旅行をしています。
直近で働いていた工場の仕事をする前は、サービス業の仕事をしていたのでなかなかまとまった休みが取れずにいました。
しかし、工場の仕事でGW、夏休み、年末年始の長期休みを30代にして初めてもらってから、何かに吹っ切れたように海外旅行に行くように。
おそらく仕事で溜まったストレスを海外で消そうと必死になっていたんでしょうね。
今は自由に海外に行くことができませんが、その代わりに国内旅行を続けていて、今も変わらず長期休みは飛行機に乗って旅に出かけてます。
松井ひろたか 日本語教師になる
2018年頃から、僕は工場の仕事に限界を感じるようになりました。そして、「このままじゃいけない!」と思い新たなことを勉強しようと心に誓ったのです。
で、色々と調べた結果外国人と関われて、海外でも就職のチャンスがありそうな日本語教師の仕事がいいんじゃないかと思い、静岡市内にある日本語学校の日本語教師養成講座に通うことにしました。
しかしキツかったですねー(笑)
何しろ仕事の合間の火曜日の夜と土曜日の昼間、色々なことを犠牲にして基本となる文法や発音、教育理論を勉強してきました。
もちろん日本語学校の生徒さんに対しての模擬授業もやりましたが、結果は、、思い出したくないのでここでは語りません(苦笑い) 。
色々苦労を重ねながら、入学してから1年後に養成講座を見事修了。
晴れて日本語教師の資格を得ることができました。
現在は、静岡市内の2つの日本語ボランティア団体で、静岡市在住の外国人の皆さんに日本語を教えています。
これから日本語教師として、
- 日本語教育能力検定試験に合格する
- 海外の日本語学校で就職して日本語を教える
を達成できるようにしたいですね。
日本語教育能力検定試験は、過去2回受けていずれも不合格だったので、いずれは合格したいです。
松井ひろたか 旅行以外の趣味と経験
- サッカー
- ラグビー
- 野球
- 競馬
を観戦するのが好きです。
中でも好きなのはサッカーで、欧州リーグは毎週深夜にライブオンデマンドのDAZNで生観戦。
Jリーグもしばしスタジアムで生観戦に出かけるのが好きで、2020年には入場制限はありましたが、15試合スタジアムで観戦しました。
静岡市出身ではありますが、Jリーグで特別好きなチームというのはありません。
時々、関東や関西、東海地区に足を運び、現地でサッカーを観戦しています。
交通費はかかってしまいますが、静岡よりも環境の良いスタジアムでサッカーを見れるのであれば、特に苦ではありません。
野球は日本は阪神タイガース、メジャーはボストン・レッドソックスのファンです。
ちなみに、上記で紹介したスポーツは、いずれも海外での観戦の経験があります。
欧州サッカー
2014年:マンチェスター オールドトラフォード
ロンドン クレイブン・コテージ
ミュンヘン アリアンツアレーナ(バイエルンではありません)
ベルン スタッドドゥスイスバンクドルフ
メジャーリーグ
2017年: トロント、ロジャースセンター
2018年: ニューヨーク、ヤンキースタジアム
ラグビー
2005年:ニュージーランド オークランド、クライストチャーチ、ロトルア
オーストラリア シドニー、ブリズベン
2010年:オーストラリア シドニー
これまで競馬を見た国リスト
オーストラリア、ニュージーランド、香港、シンガポール、イギリス
これまで行った競馬場は、国内外合わせて40カ所にも及びます。
この影響を受けて、20代後半から30代の前半にかけて、馬術競技にハマっていました。
競馬を見ているうちに、自分でも馬に乗って見たい!という思いが強くなったのです。
地元の乗馬クラブの正会員になり、毎週2日は乗馬クラブに出かけてました。
平日は、仕事帰りや遅番前に自転車で片道30分かけて通っていましたね。
特に障害馬術に力を入れていて、競技会に参加して入賞した経験があります。
今は仕事が忙しくなって馬に乗る機会もなくなってしまいましたが、人生で最高の経験をさせていただきました。
所属した乗馬クラブも良い環境で、乗馬クラブのスタッフや会員さん達もいい人ばかりで、本当にいい経験ができましたね。
乗馬クラブに何回も通い続けたことで、特定の馬に優先的に騎乗できる専有馬制度を利用したことで、僕は国体で入賞経験を持つ素晴らしい馬に乗ることができました。
時々コントロールが効かなかったり、うまく障害を飛べなかったりして迷惑をかけることもありましたが、パートナーとなった馬とは本当に友人のような付き合いをさせていただきました。
河川敷に草を食べさせに行ったり、障害を練習したりと、色々な思い出があります。
馬の世話を通じて、責任感や愛馬精神、馬の体調を見極める観察力が身につきました。
乗馬を始めてから、自分自身も精神的にたくましくなったと思います。
管理人ひろたか ブログを始めるきっかけ
- WordPressを立ち上げ方
- ブログ運営の基本
を学び、当ブログ「ひろたかブログ」を立ち上げました。
- 地元静岡県の観光名所やおすすめスポット(あまり知られていない静岡の観光名所をブログで紹介していきます)
- 国内外の観光スポットの紹介記事(国内、または海外の旅行記やおすすめスポット、ホテルや飛行機、鉄道に関する記事を書きます。僕は1人で旅行をするのが好きなので、1人旅行が好きな人に刺さる記事を書くことを心がけていますので、1人旅好きの方は必見です。)
- 日本語教育(外国人に対する日本語の教え方や、日本語を教えるための教材、日本語教育の現状についてなど、幅広く記事を発信していきます。)
- 英語学習(英会話の勉強についてや、TOEICの勉強に関しての記事を主に発信します。)
基本は雑記ブログですが、以上の記事を中心に発信をしていきます。
少しでも、読者の皆さんの悩みや疑問を解決できて、有益な情報を提供していきたいです。
松井ひろたか Webライターを始めようと思ったきっかけ
僕がWebライターとしての仕事を始めたきっかけは、単純にブログの延長線上として、
ブログで稼ぐのは難しいけど、ライターだったら稼げるんじゃないか?
という何とも浅はかな理由で始めてしまいました。
僕がWebライターの仕事を知ったのは、2020年の秋頃です。
通信講座などを利用して勉強しようと思っていたのですが、本業の方が忙しくなってしまい、中々始めることができず仕舞いでいました。
それでも何とか勉強してみようと、2021年の4月にWebライターの佐々木ゴウさんの主宰するライター組合(通称ライ組)に運よく入会することができて、講座を聞いたりしながらWebライターとdして動く体制を整えていきました。
ところがそれから1ヶ月後の2021年5月中旬、僕はうつ病によって会社を休職することになり、仕事ができない状態になってしまうことに。
しばらく身体を休めた後、ブログを書いたり講座を聞いたりして、回復の時を待ってました。
休業が長引くにつれて、金銭面でも不安になって、
これからは自分自身のスキルで稼いでいかなければならない。
いつまでも会社に頼っていちゃダメだ!!
と思いつくようになって、休養から半年後にようやくWebライターとしての活動を開始しました。
まだ目立った成果は出ていませんが、将来的には国内や海外でワーケーションをしながら、Webライターとしての活動を続けていきたいです。
こちらが僕のポートフォリオです。
松井ひろたか noteについて
2021年の7月頃から、noteでも記事を作成しています。
内容は主に、これまで行った海外、国内旅行の旅行記を気ままに自由な表現でまとめています。
こちらは、タイへ行った際の旅行記です。
日本では経験できない色々な経験をしてきました。
以前やっていた乗馬の記事も書きました。
ニューヨークに行った際の楽しく、苦しい思い出も書きました。
これからも、色々な場所に行った際の旅行記を書いていくので、ぜひ読んでみてください!
最後に一言
正直、
- コミュ障
- 仕事でパソコンを使ったことがない
- 仕事で文章を書く機会がほとんど無かった
このような自分が、ブログを立ち上げて運営しているのが、今でも信じられない感じを持つ時があります。
それでも、日々勉強を続け、少しでも読者の皆さんの為になる有益な記事を書き続けることができるように努力していきます。
そして、
ひろたかブログ参考になりました!
ひろたかブログすごく面白かった!
という人に多く出会えることを願っています。
最後まで読んでいただきありがとうございました!!
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